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【河野和洋】「明徳で松井5敬遠&黒田の同級生」が現役を引退

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明徳で松井5打席敬遠 河野兼任監督が現役引退発表(11/6 スポーツニッポンより)

 クラブチーム「千葉熱血MAKING」の河野和洋兼任監督(41)が5日、現役を引退した。明徳義塾のエースとして92年夏の甲子園で星稜・松井秀喜(元巨人、ヤンキースなど)を5打席連続敬遠。「当時は大変だったけど、あれがあったからこうやって今もチャリティーで人が集まってくれる」。専大で同期だった広島・黒田の引退を見て「体もぼろぼろ。僕もそろそろ…」と決意した。
 この日は松戸市内の「東日本盲導犬協会チャリティーマッチ」で、米海軍横須賀基地チーム相手に4打数4三振も「いやあ、当たりませんでした」と笑顔だった。


1992年、生まれて初めて「センバツ高校野球」を観に行った。特にお目当ての選手がいたわけではなく、甲子園球場に到着すると、「星稜(石川)vs 宮古(岩手)」という対戦カードが行われていた。たまたま見ることになったこの試合で、3ランホームランを2本打ったのが、若き日の松井秀喜さんである。のちに社会問題となった「5打席連続敬遠」が起こったのは、この年の夏のことだった。

憮然とした表情の松井選手、「勝負はしません」という実況、投げ込まれた大量のメガホン、それを拾いに行く星稜の選手たち、スタンドからの帰れコール・・・。24年たっても忘れることができない。そして、このときの明徳義塾のピッチャー(背番号8)が河野和洋さんである。

大人になって知恵がついた今は、「馬淵監督の指示に従っただけ」だとわかるのだけど、当時はまだ自分も幼かったので、そういう考えには及ばなかった。メディアが「星稜=善、明徳=悪」という図式で報道したことも大きかったと思う。こうしてマウンドにいた河野さんは、世間から強烈なバッシングを受けることとなった。

その後、専修大学に進学。同級生には黒田博樹選手がいたが、入学当時は(違う意味で)河野さんの方がよっぽど有名人だったそうだ。卒業後は社会人のヤマハへ進み、アメリカの独立リーグでもプレー。2008年からは「千葉熱血MAKING」の選手兼任監督として現役を続けてきた。黒田選手と時を同じくして引退、というのも何かの縁かもしれない。

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今年11月5日、広島カープのリーグ優勝パレードが行われた同じ日に、千葉県松戸市の球場で「千葉熱血MAKING vs 米海軍横須賀チーム」のチャリティーマッチが開催された。およそ200人の観衆が見守る中で行われた河野さんの引退試合。背番号は松井さんの代名詞の55。「いつまでもあの夏を引きずっていたら、野球はやれない。だったら、前向きに受け入れよう」と、自ら進んでつけたそうだ。

起きたことを受け入れて、そこから次にどうつなげるか。卑屈になったり、諦めたりせず、自分の力だけではどうしようもないものを、いかにプラスに転じていけるかが大事だと思う。(In His Times 中田英寿という時代/増島みどり


「僕は敬遠したことで、実力以上に注目してもらえた」「当時は大変だったけど、あれがあったからこうやって今もチャリティーで人が集まってくれる」。自分が陥ったマイナスの状況を、プラスに転じていけるようになるまでには随分と時間がかかったはずだ。あんな目に遭って、野球を嫌いになってもおかしくなかったのに、41歳まで現役を続けるなんて、本当に野球が大好きなのだろう。松井さんより4年長くプレーしたことも素晴らしい!

今後は少年野球などの指導者として、ずっと野球と関わり続けていきたいとのこと。「永遠の野球小僧」のような河野さんの生き様に、拍手を送る人はたくさんいても、バッシングをする人はもう一人もいないと思う。

 

河野和洋さんから学んだこと

起きたことを受け入れる。マイナスの状況をプラスに転じて生きる。